彩加のひとしずく(更新中)
□壱
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それは、誰にも見られてはならない。
しんと潜んだ空気が漂う、夜闇の校舎。遠くで聞こえる鳥の声に、握った羽根に汗が滲んだ。
ぽつぽつと汗が滴り落ちる。頬を、首を、背中を、じっとりと広がる気味悪さに思わず喉を鳴らした。
真っ暗な窓の向こうから誰かに見られている気がして、せわしなく視線を彷徨わせる。ぎょろぎょろ動く眼が血走っていることに本人は気づいていないだろう。
――誰にも見られるなよ。
そう薄く笑った唇を思い出す。溶けた蝋のようにとろとろ響いた声に、流され固められた偽りの覚悟。
少年は深く息を吸い込むと、羽根を握る指から力を抜いた。ひらりと舞い落ちたそれは、光の無い場所でもわかる程赤く染められている。十字路になっている廊下の中心に落とされた羽根は、酷くぽつねんと浮かび上がった。
それを思い切り踏みにじる。羽根がほどけ赤が床にこびりつくまで。執拗に足を動かすうちに上がった息を必死になだめ、少年はそっと足を浮かせた。
無残な姿になったそれをつまみ、十字路の左角にある掃除用ロッカーに手をかけた。あとは、これを中に捨てるだけで良い。そうすれば――、
埃っぽいロッカーの中に、ぐしゃぐしゃの羽根を落とす。じっと見つめながら慎重にドアを閉めた背中に緊張が走る。
――成功すれば、お前の背後に妙な気配が現れる。でも、決して振り向いてはならない。決して、その姿を見てはならない。
「お、俺、おれの……」
唇をこじ開け、絡まる舌を必死に動かす。あとは願い事を言えば良い。決して振り向かずに、決して余計なことはせずに。
決して――。
「おい! こんな時間になにしてる、お前どこのクラスだ」
その怒声に、少年は思わず振り向いた。体の硬直が解け、なにも考える余裕はなかった。ひとえに夜中に学校に忍び込んだ罪悪感と、教師への恐怖からの反射的な行動だった。
「すみま、せ――?」
咄嗟に出ていた謝罪の言葉が途中で途切れる。少年は目の前に立つそれを茫然とした瞳で見つめ、己の失敗を悟った。
羽根をロッカーに仕舞った後は、決して振り向いてはならない。
ましてやそこに、≪誰かがいたのなら≫
「……やれやれ」
校舎内の空気の変化を感じ、黒髪の少年はつまらなそうに嘆息した。校庭からでもわかる、今回の挑戦者も失敗したようだ。
まあ、それならそれで構わない。
昏く鎮座する校舎が、獣のいななきを上げた。とぐろを巻く冷たい風に体を預けながら、少年は満足げにほほ笑む。
遠くで響いた悲鳴は風にさらわれ、少年の耳に届きすらしなかった。
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